2014年3月29日土曜日

弟の死40

 まだまだ一人でなく時間は続きそうだ。

 弟の部屋の弟の布団を片付けたことも後悔し始めた。
 こんなことの繰り返しだ。

 ダニがわくなどと自分で言い始めて畳んだ。
 実際ダニはわくだろう。
 しかしそれがなんだというのだ。

 今さらながら自分の浅はかさを思う。

 弟の寝ていた布団に寝転んでもよかったんじゃないか。
 篠原涼子が演じた刑事みたいに。
 亡くなった場所ではないけれど。

 弟の残影が感じられたかもしれない。

 なんだか病的になってきているかも、私。

 私が見ていた弟は、私が勝手に作っている弟の姿なのだろうが、間違っているとは思わない。

 弟からすれば、弟の一部にすぎないのだろう。

2014年3月28日金曜日

弟の死39

 昨日実家で物置の整理物を確認していたら、小中学校時代の私の文集やらと弟の作文とテストが出てきた。

 私の文章の中には弟がよく登場していた。
 けんかの情景や一緒に行動していた様子。

 ひょうきんな弟の姿が描かれていた。
 少し私の次男の感じに似ている。

 しゃべり方を思う出そうとするがなかなか思い出せずにいる。
 それでも、私の長男の感じに似ているように思えたり。

 自分のいいように記憶を書き換えているのだろうか。


 弟のやってあげられることはいっぱいあったのにできなかった。

 息子たちにもやってやれることがいっぱいあるのだと、気づかされている。
 それが行動に移せるかどうかは疑問だが。

 私のもやもや感は自分の情けない怠け根性にある。

 息子にも弟への後ろめたさと同じものを、感じている。

 動かない私。

 自分第一の私。

 反省だけならサルでもできるのに。

2014年3月27日木曜日

弟の死38花のベッドでひるねして

 言葉が癒してくれた。

 登場人物の章夫おじさんに重なった。
 
 「おじさんにもそんな時間があった。」こころをゆさぶられた。
 私が思う弟の姿は、私が持っている弟の断片でしかない。
 弟を思いながら、一緒に行動する。


 もう少し時間がかかってもいいのだ。

 私と弟の小中学校時代のテストや作文が出てきた。
 タイミングがぴったとしている。
 間違わないようにじっくりと進みたい。

 
 私と弟はけんかもしていた。
 まったく覚えがない情景を、作文はみせてくれた。
 焼いてしまうけれど、私の中に弟のさもない時間があったと思わせてくれた。
 大事な、大切なさもない時間。

 幸せな、幸せだった、さもない時間。

2014年3月26日水曜日

弟の死37

 弟から譲られた車の中のたばこの匂いも気にならないくらいに消えた。
 昨日、息子を乗せているときに不意に感じ、おもわず口にしたが、息子は私の気持ちを理解したのか、黙っていた。

 忘れていってしまうのか。
 自分自身にも震える。

 かわいかった幼い日の弟と大人になった弟の姿。
 写真でしか確認できない。
 さみしいと思う。

 死亡宣告をされて自宅に帰ってきてから、葬儀場に移るまでの時間。
 何していたのだろう。
 見つめた時間は、頬を擦った時間はみじか過ぎた。
 感触は戻らない。

 もっとこの世の姿を残しておきたかった。

 土気色になっていく弟の顔を写真に残すことはできなかった。
 悲しむ時間が少なすぎた。

 悲しむ心が深すぎて、どうしたらいいかわからなかった。
 通夜・葬儀は事務に気持ちが向いてしまっていたのかもしれない。
 親の代わりに動かなければならなかったのは確かだ。

 ひとり悲しみに暮れる瞬間は今じわじわと訪れている。
 自分がこの先正常な精神でいられるのか。
 前を向くことができるのか。

 遺志継げる自信がないのが本音。

2014年3月20日木曜日

弟の死36

 かわいそうなことをした。悪いことをした。

 この言葉に尽きる。


 次男が中2の修了式だった。
 そういえば、私が実家を離れ高校からの寮生活に入ったのは弟が中2のときだった。

 あの頃は弟のことを考えていなかった。
 勝手に実家を離れ、さみしい気持ちはあったが自由だった。

 それは、引き換えに、弟の苦難を与えた。
 祖父の後妻と母の確執の中で、弟はさみしさと孤独の中にいたのだろう。
 居なくなって気づく情けない姉。
 全てが弟の犠牲の上に成り立っていた。

 どんなに辛かっただろうか。
 どんなにあやまっても取り返しはできない。

 弟の後ろ姿しか写っていない携帯写真に「会いたい」と願う。

2014年3月19日水曜日

弟の死35

 月命日。
 もう2か月たった。

 実家に行こうという気持ちはあるが、なんとなく疲れてしまっている自分がいる。
 今日は息子が行ってくれた。
 私の代わりと言っておくように話す。

 弟が亡くなり実家の継手がいなくなった。
 私に家を継げと言うが、一応長男で同居中。
 
 それ以外にも問題はあるが、素直に受けられない。

 親子して介護や老後の不安を抱えたままの状況は暫く続くだろう。
 私は「任せておきなよ」などと言えない。


 弟が望んだようにするのが当然なのか。
 私のジレンマは鬱積していきそうだ。
 昔の日記が出てきて、読んだ。
 親への不満がいっぱい書いてあった。

 今の両親には私の胸のうちなどなんの意味もない。
 逆縁に悲しむ親。ただそれだけ。
 私に期待する方向には行けない。まだ。

 弟が生きていたら楽だったのに、と。
 思う私はやっぱり弟の犠牲の上で胡坐をかいていたんだ。
 そう思う。
 弟は何の期待もしていなかったのだろうか。
 それでも期待して、そのたびに私が裏切ってきたんだと思う。
 弟の後ろ姿が浮かぶ。
 声を掛けたい気持ちを伝えられないまま、伝えられなくなってしまった。

2014年3月13日木曜日

弟の死34

 50日祭が終わった。
 まだ気持ちの整理がつかず、人の言葉も素直にうなずけない。
 区切りは必要だというが、そんなもの何の慰めにもならない。

 桜を見ても、和也は今年は見ることができない事実しかわたしにはない。
 世界遺産での桜も、もう見ることができない。
 携帯に残された写真の中に場所や時期が分かるものもあり、修理中の姫路城や満開の桜は今年観ることができたであろう希望がなくなった。


 一番正直に感情がぶつけられるべき相手だった姉としての私は、避けてきた事実にどう向かっていったらいいのか。
 情けない。
 
 いくつになっても可愛かった弟がもういない。
 姉弟ってよかったなと、いなくなって思うなんて。
 悲しい。

2014年3月3日月曜日

掛け替えのない弟の死33

 柳田邦男さんの『犠牲・サクリファイス』
 何か救いがあるかもしれないと読み始めた。

 11日間そばに居られた間が私にはなく、死亡宣告前の対面時間の短さが思い起こされた。
 こんなものなのだろうか。
 看護師である自分の浅はかな思い込みで、蘇生できたかもしれない弟を見殺しにしたのではないかと、恐ろしさで頭がいっぱいになる。絶対に助けたい気持ちがあったのかと。
 心電図がまっすぐだったのは私の見間違いだったのではないか。
 亡くなる前に何もしてあげなかった。
 あんな機械だらけの救急室で死亡宣告なんて。
 死後の処置を一緒にできなかった。希望すればできたかもしれないのに。
 後悔やすまなさでいっぱいだ。

 死んでしまったのに何を説明されても仕方がないと、質問もしなかった傲慢な自分は
 親の初動や説明ができない事に対して不満を抱いていた。
 なんて身勝手な人間だろう。
 弟の対して言い逃れができないことをしていた。


 もういない弟に許してもらうこともできない。
 一生考え続ける。

掛け替えのない弟の死32

 心の中に何かが溜まっていく。

 心臓マッサージを続ければ心臓が動いたかもしれない。
 医者の言葉に対し、諦めが早かったのかもしれない。
 私が可能性をつぶしたのかもしれない。
 どんどんその思いが大きくなる。


 気持ちが後ろ向きで涙があふれてどうしようもない。

 今週の日曜日には49日を迎え、お墓にお骨を収める。
 祭壇がなくなる。
 居間にお供え物や花が飾られなくなる。

 
 あの日のままの弟の部屋は、弟の残り香をいつまで感じさせてくれるのだろうか。

 私はこうしてここに心の中の澱を綴る事で、弟に赦しを請えるのだろうか。

  何のための死だったのか納得できないのは、後悔している自分が受け入れられないだけなのか
、弟への依存から抜け出せないのか。
 大人になれない自分、勇気のない自分、何もしようとしない自分、情けない自分、どうしようもない自分が認められない私はいつまでも堂々巡りをしているしかない。
 

 心停止後の蘇生率を調べて何になるのだろう、生きていた可能性を今さら考えて何になるだろう、それでも考えずにいられない。

 地面を這いずっているようなこの時間は自分を許す理由をみつけているだけの自分勝手な時間でしかない。それでも、そうしないと許せない自分自身がいる。
 なんて傲慢なのだろうか。

2014年3月2日日曜日

掛け替えのない弟の死31

 幸せの実感ってなんだろう。

 今私にとってどの時間が幸せなのか。
 息子の笑顔?
 

 自分の行動基準が分からなかったり、何やっていたのか思い出せなかったり。
 靄の中にいるみたい。

 知人が日帰り入浴に誘ってくれたが、きっと取り留めのない思い出話や後悔話になってしまうと思い断った。

 甘えてもいいかとも思ったが、真に語れる相手はなかなか居ない。

 堂々巡りで終わってしまいそうな今の私の話には何の効果もなく、付き合ってくれた人を疲弊させてしまうだけだろう。

 自分で解決しなければならない問題だと思っている。
 けれど、解決方法が見つかっていないまま今日になっている。

 何の行動もとれずのまま。

 神様のやることに意味を見いだせないままだ。
 私の立場弟の立場で意味を見いだせない限り今の場所にいるだけになりそうだ。
 なんて依怙地な私だろうか。

正欲  朝井リョウ

 >作家生活10周年の著作。  大学生作家・サラリーマン作家と言われていた頃があったなと思う。  『正欲』  読み終わり考える。  読み取りの苦手な私は何が正しいのか?  作者の意図と違う感覚だと恥ずかしいと。  明日、死にたくない人の流れに乗るために思う。  このブログも登場人...